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普通との闘いが僕の今を支えている

この話は何度となく書いていると思う。
僕は幼い頃、本当に変わり者だと言われていた。

一番記憶にあるのが、5つ離れた姉に言われた一言だ。
「あんたは一緒に映画とか連れていっても、いっつも他の人と笑うポイントが違って、一緒にいくのが恥ずかしかった」
家族からも友人たちからも変わり者だという風に言われて少年期を過ごしていた僕は、徐々にそれが世間では恥ずかしいことだという風に認識をすることになります。
今では、人と違うことは素晴らしいことだなんて言葉を言うような風潮が若干あるにせよ、まだまだそこは基本変わっていない。
特に僕が幼かった頃までは、人と違って変わり者であることは、恥ずかしいことだという認識しかなかった。

僕は世間でいう「普通」というのは一体何なのか?
小学校の高学年に上がる頃には常々考えていた。
人と違うことをすることは、恥ずかしいこと。もっと普通にいなさい。
でも、普通って何よって。

そしていつしか、周りの人たちを俯瞰に観るようになっていきました。
いや、正確には僕自身も俯瞰に観るようになっていく。

僕の人生は常々「普通」との闘いだった。
人に認めてもらうためには、どれだけ「普通」になれるのか?それが鍵だと思っていたから。
自分自身が思い描く「普通」と、世間が求める「普通」のギャップで悩み苦しんで鬱のようになることだってあった。

けれど、そのおかげで色んな普通を知ることが出来た。
例えば、日本人は普通レジに並ぶ時は行列になっている列と、がら空きになっている列のどちらに並ぶのか?というような、単純な話だって、僕にとっては普通研究においてとても大切なものだ。

しかし、調べれば調べるほど、普通というのは、国や地域、男女や年齢差、時代によって大きく変わることがある。
一番分かりやすいのは、「普通が一番」が「普通ではダメだ」と変わっていくこの時代もそうだろう。

そんな時に「しらべぇ」に出会った。
僕が今書かせてもらっている「しらべぇ」が、立ち上がった時、これだこれをやりたかったんだと思った。
元々アンケート調査を元に記事を書いているサイトはいくつもあった。
けれど、しらべぇが魅力的に映ったのは、その「普通」と「異質」の両方をフューチャーしながら、堅苦しくなく、楽しくでもまじめに取り組んでいるところだ。
僕が応募した時は、まだ立ち上がったばかりで記事数こそ少ないものの、上がっている記事ひとつひとつに見て取れるその「普通」と「異質」との闘いが、僕にとって最高に心地よかった。
だから、今そこで文章を書いていることは僕にとって最高にシアワセなことでもあります。
本当に色んな意味で迷惑ばっかりかけてるんですけど、でもしらべぇの運営チーム、そして編集のみなさんは、本当にステキで、別におべっか使うわけじゃないけど、こんなどうしようも無い僕をずっと優しく仲間として受け入れてくれている。

気づけば普通の闘いの旅も随分と長く続けて気がする。
誰しも「普通って何?」に悩んだ夜はあるんじゃないだろうか。
僕は多分これからも普通との闘いを繰り返していくと思う。
けれど、今こうして自分が創りあげてきた「普通」という名の偏向フィルターは、結局どこの誰にも当てはまらないことにも気づいている。

人は誰しも一緒じゃない。それは誰もが知っていること。
僕は自分が変わり者であって、そのまま大手を振って歩いていた幼少期の頃の方がどれだけ楽しかったかを知っている。
今でもまだ、全然普通になれない自分にもがき苦しむことがいっぱいある。
けれど、だから人生という旅は楽しいんだと思う。

時折「私は普通だ」と自分で思っている人に出会う。
ずっと研究してて思うことだけど、正しい普通なんて本当はどこにも存在しない。誰しもが異質であることを恐れて、賛成多数にすり寄ろうとしているだけだ。
だって、そのほうがなんだか安心するから。
クイズ番組で5人中4人が◯をあげたら、×をあげた残りの1人は不安になる。
人はきっとそんなもんだろう。クイズ番組はすぐに答えを教えてくれる。それが間違っていても、間違ってたのかーで終わる。
けれど、人生の選択はすぐに答えを教えてくれないし、それが正解であるかがずっと分からない。
だから、人は多数派にすりよるんだろう。
正しい普通なんてどこにもないんだってこと。

自分を普通だと言っている人は、そうして無難な人生を進んできたことにもしかしたら後悔をしているのかもしれない。
もしそれを後悔しているとしたら、ひとつだけ言っておきたい。
未来は常に僕達の見えないその先にある。タイムマシンなんてものがもし出来たとしたら、それはきっとつまらないだろう。
少なくとも、僕達が知っている世界では、今はまだ未来は見えない世界だ。
僕がiPhoneを初めて買った時、人は「変わり者」だと言った。
今はiPhoneを買うことはむしろ普通なことになっている。
普通という価値観とはそんなものだ。

例えばそれが時に世間でいう普通から逸れていたとしても、何も不安に思うことはない。一番大事なのは、自分が本当にその選択を自分の意思で決めたか、そしてもしその選択の良し悪しを「普通」なんて言葉で決めないことだと思う。

まだまだ僕ほどの人生では、この言葉に重みもなければ、これだ!という言葉も選択できない。
僕にはまだまだこれからも普通との闘いの旅が待っている。
いつかその境地に辿りつけたら、その時は自分が変わり者であったことを誇れるような気がするから。